昭和42年04月08日 朝の御理解
信心の段階というものを、なかなか、言葉でそれを現す事は出来ませんけれども、自分の心の上に、それを思うて見ると、だんだん自分の信心がどの程度のものかという事が判ります。いつか私の御理解の中に拝まにゃ通さんと、改まらねば通さんと磨かなければ通さんと、という様な事を頂いた。あの時にある方の願いをさせて頂いておったら、今頃はあんまり見ませんけれどもね、子供の時分にありましたよね。
拝まな通さんいう昆虫がおりましょうが、カマキリと申しますですね。これは拝まな通さんと申しました。あれをご心眼に頂くんです。その方は信心がまあだ初めの頃からですから、結局なあにも判らんでもいいんだと、だから一心に参って来いと一心に拝めと。それでおかげ下さるんですよ。又一心に拝むという事はですね、確かに自分の心の中に一つの安らぎを感じます。
どの様な不安焦燥があります時でもどんなにイライラする時でも、どんなに腹の立つ時でも御神前に座らして頂いて、繰り返し繰り返し大祓いでも奏上さして貰うて、神様に打ち向こうておりますと心が安らいで参ります。腹が立っておったのが段々なくなって参ります。御神前を立つと又イライラする神様の前を離れると又腹が立つ又座る。真に拝む真に有り難いと思う心すぐにみかげの始めと。
教祖が仰って居られますが。確かにその、真に有難いというのに通じるんですね。私共がイライラしたり不安であったり、腹が立ったり自分の足元は見らずに、人の足元ばっかり見えたりする時には、まぁこんな事じゃおかげが受けられんと思うて、間違いないですね。所がお参りをさして頂いてお話を頂いておると。ああそんなものかなと本当の事が判って来る様になる。
同時に一生懸命に所謂拝むという事、御祈念をするという事はその人の心を安らげるものなんです。その心が安らげるという事は、真に有り難いというものとは、少し意味は違いましょうけれども、真に有り難いに通じるのです。ですからおかげの受けやすい状態になる訳です。そしてだんだん信心を進めて参っておりますとです。前も申します様にはぁそうだなほんとに今までの生き方は、間違っておったんだなと。
只、人に悪い事をしなければ、それでもよい事の様に思うて居ったり。自分は真っすぐの道を歩いて居る様に、思うて居ったけれども、御教えを頂かせて頂くと、いわば、間違いだらけの生活をしておったんだな、第一、天地に対するところの、大恩などと云う事は判りもしなかった。天地の道理なんかと云うものは知らなかった。道理に即応した、道理に合うた生き方。
天地の大恩に対するところの、神恩報謝の、有り難い勿体ないというお礼の生活が出来ていなかった。そこから信心の生活の、本当の姿というものが、感じられる様になって来る。天地に対するところの大恩。天地の中には、天地の中の一つの法則というものがある、道理というものがある。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよとおっしゃる。
万物を見て道理にあう所の信心、法則に従った所の生活が出来ていってこそ、人間はまともな生き方が出来ておるという事になるのです。人になんぼ悪い事をせぬからというて、それであの人は正直者だというてそれで本当だという事ではない。そう云う様な事が判って来る。教えを頂けば頂く程はぁこういう生き方こういう在り方、こげな思い方ではおかげを受けられんという事が判って来て。
そこから改まりの第一歩という事になって来るのである。一生懸命拝んで行く、そこから拝む事は、やっぱり、いつも付いて回りますけれども、拝む内容が変わって来る。どうぞどうぞと、一心に拝まにゃ通さんと仰るが、一心を立てて拝まして貰うところから、不思議におかげを頂いて来る。そこからだんだん拝んで行く信心を続けて行くうちに、自分が改まらなければならない事が判って来る。
思い方を変えなければ、おかげにならん事が判って来る。そこから改まりの第一歩ですからそこからいわば、今度はお願いの一生懸命に願っておった信心から、いわばお詫びの信心という事になって来る。同じ願いでもですどうぞ改まらせて下さいという願いに変わって来る。私がもし五十歳であるとするならば、五十年間という間信心の無かった時代には、もうほんとに天地に対するところのお粗末御無礼という事。
いうなら親不幸な五十年間であった事に気づかせて頂いて。初めて天地の親神様とのいわば関係、親と子としての関わり合いというものがです。あっておってもそれを気がつかずそれを知らなかったという事に対するところの、云うならお詫びまたは本気で改まろう、本気で改まろうとこう願わして貰う。教えを頂けば頂くほど、今のあり方ではいけんのだ。今の考え方ではいけんのだと。
今の自分では、おかげは受けられんというので、いわゆる心に安らぎとか喜びとか頂けんという事が判って来るところから、本気で改まりの第一歩が始まる。不思議なんです改まらして頂くという事に、はあここが自分が改まらにゃいけんと気がついて、改まる事に精進をさせて頂きますと不思議に心の中に、いわゆ、おかげが頂けれる喜びが頂けれる、安らぎが頂けれる。
私は第二段階だと信心の。改まらなければならないんだという事を、気づかせて貰うという事は。そこにお詫びの信心という事が云える、生まれるんではなかろうか。思うて見れば思うて見るほどお詫びを申し上げる他には無いのである。平身低頭神様にお詫びをする他には無いという様な、内容の信心が出来てくる時です。その人はもう一段階のいわゆる拝まにゃ通さんと云うところから。
いわゆる改まらにゃ通さんともう神様は云うておられるのだと。それだけ信心が成長したのだという事。どうでしょうか。大体のほんなら十年信心しよるから、もう二段階に入っとると云う訳にゃ参りませんのです。それは厳密に申しますとです。お礼もお詫びもまたはお願いも、一つは大体渾然としたものなんですもんね。けれども自分の信心の一つの焦点というものがです。
どうでもおかげば頂かんならんと云うて、一生懸命拝むと云うて居った時代からです。もう本当に自分が改まるより他には無いんだと。家内が悪いんじゃない子供が悪いんじゃない人が悪いんじゃない。もう自分をほんとに見極めさせて貰えば貰うほど、教えを頂けば頂くほど私が改まる以外にないんだと云う内容になってくる時に、もう信心は二段階のところを進んでおるんです。
なら御道の信心だけにしとるけん、お願いせんでよかお礼は申し上げでんよかかと云うとそうじゃない。そして今までどうにも出来ないと思うて居った、云うならば自分の癌と云う様なものをです取り除く事が出来る事に成功するとです。そこから愈々磨かにゃ通さんという信心があるのです。こりゃ限りがない磨くという事においては。もうこがしこ磨いときゃよかという事じゃない。
磨き止めたら又それこそ磨いても磨いても身が鉄ならばである。所謂人間のあさましい凡夫であるからにはですもう磨き止めるともうそこに曇りが出てくる。有り難いというものがその反対に又有り難いというものも段々薄らいでくる。ですからその有り難いというものも愈々成長する。有り難いというものが愈々育って行く為にも、一生懸命に拝まなならんのであり一生懸命、改まる事に努めなければならんのであり。
本気で私共の心の中から頂ける信心の喜びをです。天地に対する所の神恩報謝の御礼の生活というものが、出来なければならないという事。私はこのお礼ばっかり申しておりますという、本当にお礼の為にお参りしているという。そういう信心がお互いの信心の理想でなからなければいけんと思う。この事ばお願いせんならんから、何か尻に火が付いた様ないわばものを感ずるから、合楽通いをしておるというのではなくてです。
日々こうした広大なおかげを受けておるという事を思うたら、お礼参りをさして貰わなければ居られんのであるというところにです。なってくる時信心は非常に尊い、楽しいものになって来りゃせんかとこう思う。そこらへんにはですね、例えば願わんでも頼まんでもお願いをしよらなくても、おかげの頂ける世界があるのですよ。ですからね。そういう一つの段階を追うてです。
一つ一つを自分のものにして行くというところの、私は信心がどうでも願われなければならないと思います。一生お願いばっかりの信心じゃった。只頼むことばっかりの信心じゃったと。で終わったんでは信心のせっかくの楽しみ、私は先日ある方に申しましたんですけれど。お願いばっかりお願いの時だけ参ってくると言う様な信心はね。丁度銀行に金を借りに行く様なもんばい、始めの間は貸されてもね。
ただ借るばぁっかりの信心だったら、そげん貸されるもんじゃなか。ですから同じ銀行通いをするでもです。金ば預けげ行くと云う様な、利だけを貰いに行くと云った様な信心。ある人が云うております。神様が今私におかげ下さると云うても。「いえ神様ちょっとお待ち下さい」とこちらから、例えば押し返す様なもの。「いえ元金には手はかけません。利だけ頂ける様になったら、利だけ頂きますから」と云う様にですね。
云わな心持ちがものすご出来てくる。これは秋永先生でしたかね、あんな事云うておりましたのは。今私にこういうおかげを神様が下さるというてもです。とても私はよう貰わんて。それは本当の信心がだんだん判って来る様になると、貰うのが惜しゅうなって来るち。と言う様な風に信心が成長して参りますと有り難い。まあ私共の信心の一番強いのはどこでしょうかね。
矢張りやっぱりあのお願いの信心、いわゆる一心に拝むという事です。だからここんところもやっぱ、拝んで拝んで拝み抜くと云うものが、やっぱなからにゃいかんです。ちょいと御神前に座って五分どん十分段拝んだっちゃつまらん。日に一回どん二回どん座ったっちゃつまらん。あれを見れば有り難いと思うこれを見れば、やっぱり心配が起こって来る不安があるその不安が募って来る。
その度に御神前に出らせて貰うて心の静まるまで、心が安らぎを感ずるまで拝ませて貰うと云った様な、ほんとに拝んで拝んで拝み抜くというものがいるです。そして拝めばこの様な心の上におかげの頂けれる事を、よう体験するがいいです。そげん何時間でん五時間でん、何時まっでん拝んでから、何ば頼まっしゃる事があるじゃろうかと云う、人がやっぱり思う位に拝む事が大事です。
一生懸命御祈念さして貰う。そのうちに心が安らいで来る。安らいだ心でです。次の改まりという事にも気がつかせて貰う。これは区切ってお話をしておりますけれども、その例えば三つの事がです。大体は、どれもこれもが、お互い信心の内容としてあるのはありますけれども。段々その中のいわば二段階に目覚めた人、三段階に気づいた人まあだ二段階とか三段階と云った様な事は判らないにしても。
兎に角おかげを受けんならんからと云うて、一心に拝んでおる人。いろいろあろうと思います。だからどれがいけない悪いじゃありません。けれども私は一番始めに申しました様に、神様がですね拝まにゃ通さん、一生懸命拝めば通して下さるという時代とです。今度はいくら拝んでも拝んでも拝んだだけではおかげ下さらないという時代があるという事。その時には自分が改まると云う事に気づかして貰って。
本気で改まって行こうという信心に努めさせて頂かねばならん。そして願いとする。いわゆる喜びを以って、根とするところの願いとするところのものは、どうぞ毎日毎日が御礼の生活、その御礼の生活に入らせて頂けれる、いわゆる神恩報謝の生活が毎日出来るというおかげを頂かせて貰いたい。その御礼の心がです。私を合楽通いをさせなければ居られないという様なです。
ものになって来る時に、いよいよ信心の尊い楽しさと云った様なものがあると思います。それはそうでございますもんね、これは人間の誰しもが持っておる、欲望があるのですから。非常にこの金銭欲の強い人がある。誰よりも金銭欲がある、いわゆるがめついと云う人です。それかと思うと非常に名誉欲の強い人がある。さまざまな欲が沢山あります。誰しもが持っておるんですけれどもその中にやっぱ、特別にこの金欲が強いと云う人がやっぱりあります。
そういう例えば欲が無くなってそこには一切が与えられる。金銭欲を離れたら金銭に不自由しないという事。名誉欲をはずしたらその名誉を与えねばおかんと云う働きがはじまって来る。そう云うものであって本当の名誉と云い本当のいわば金銭なら、いわゆる百万長者としての、私は素養と云うかそう云うものが出て来ると思うのですよ。お互いが一つ何と云うても、汚れを先ず落さなければ出来ません。それを改まりと云う。
その汚れを落したら次ぎには、それを磨いて行くという事がある。それを様々な問題を通してその問題を砥石として磨いていく。先ず私は拝む事改まる事、そして磨くという事になってくる時に、信心の本当に喜びは頂けれるのだが、果たしてお互いの信心の内容がです。今どのくらい位あるのだろうかと。もうこれは限りの無い事ですよ。一生懸命お願いをしておる、お願いのために修行をしておる。
今も椛目にそう云う方達がありますよね。そしてその尊い信心なんです。そのお願いをしておるというてもです、小さい願いじゃないです。もう大きな願いの為に、例えて云うならば、合楽の自分達のお広前の御造営が成就の為に、一生懸命願っておる。その為に一生懸命、修行しておると云えばですね、これは実に尊いものですよね。ですからその願いとかは改まるとか磨くとかという、三つに申しましたがです、それもやはり小学校の願いと中学校の願いと、高校の願いと云った様にですね。
同じ願いでもやはり違います。改まりでも同じ事です。お礼申し上げるというても同じ事です。そこんところも一つ判らにゃいかん。自分はどの程度の、例えばお願い、どの程度の改まりの、または、磨く事に焦点の信心をさして頂いて居るかという事を、自分で確かめさして頂いてから、信心を進めて行くとです。信心が楽しいものになって来ると、こう思うですね。
どうぞ。